皆さん、心理学って知っていますか?

今僕は東洋大学の社会心理学科に所属しています。

ここでは、僕の興味を持ったことをお知らせしたいと思います。

MENU

1.人に魅力を感じるメカニズム

2.集団内の同調行動とは?

3.人を説得させるための技術とは?

4.ジェンダーとは何か?

5.アカウントとは何か

6.人の感情とは


1.人に魅力を感じるメカニズム

 T.容貌は大事か?

 人から好意を得るのに、容貌の良し悪しは必要なのでしょうか?これに対するきわめて明快な実験をランディとシガール(Landy&Sigall1974)が行っています。それは、男子大学生の被験者に対して、女子学生が書いたとされるレポートの採点をするように求めました。ただし、女子学生の容貌の良悪、レポートの出来・不出来を操作して4つの条件が作られた。その結果、当然のことながら出来の良いレポートの方が出来の悪いレポートよりも高い得点を得られたが、レポートの書き手の容貌も評価に影響を及ぼしていた。すなわち、容貌によって評価が若干異なってしまうのである。特に容貌の悪いという条件の場合は、全体的に評価が低い。これは興味深い結果であるが、これに反するような実験が行われている。
 シガールとオストローフ(
Sigall&Ostrove1975)は、被験者を『模擬裁判』に参加させるという研究を行っている。この中で、犯行内容(盗みや詐欺)と、被告の魅力度という手がかりを与えた上で、その人物に対して求刑するように被験者に求めた所、盗みの場合は魅力度の高い人は許される傾向であった。しかし、自分の美貌を武器にした詐欺の場合には重い求刑を受けていた。一概に美貌のゆえに得をするとは言えないのである。
 これらの事からすると、外見の魅力はそれ自体の牽引性とともに、同時に与えられる個人の内面に関する情報などに基づく社会的期待の効果を増幅させる媒介的な作用があると考える事が出来る。

U.性格はやっぱ大切?

 外見だけが人じゃない!!という人もいるでしょう。次は性格についてです。

まずは、印象形成についてですが、これはアッシュの印象形成の実験が有名である。これは、いくつかの性格特性を並べておき、冷たいという言葉と温かい言葉を入れ替えた場合、冷たいという言葉が入ってる場合の方が楽しい人とは思われませんでした。他にも、アンダーソンの性格特性の好ましさ実験や、松井らが行った魅力のある異性の印象・特徴の実験など色々ありますが、結局の所、相手に与える印象によって代わってくることがあります。それは次の節で説明しましょう。

V.出会いそして・・・。

()初頭効果

  これは、読んで字のごとく最初が肝心だという事です。最初の印象が、後々の対人関係に影響してくるという事になります。これはいい印象によって、相手の心に自分の印象が深く刻み込まれるということです。

()単純接触効果

  さぁ、出会ったらまずは何回も会いましょう。それが一番です。これはニュ−カム(Newcomb1968)や、フェスティンガーら(Festinger et al.1950)、ザイアンス(Zajonc1968)の研究で確かめられている。特に、ザイアンスは単純接触(mere exprosure)仮説として、研究をしている。人は、空間的に近ければ同じ情報や、経験をする事が多くなる。これによって、同じような態度を形成されやすくなるので、これによって好意的評価を導く要因となるわけです。

以上のような事が対人魅力に関する事柄の基礎です。これを参考に色々深めていければいいのでしょうか?

 参考文献

安藤清志他 1995 「社会心理学」 岩波書店

恋愛班 2000 「社会心理学研究会紀要」 東洋大学社会心理学研究会


2.集団内の同調行動とは?

 

 まず、同調行動とはどういったことなのか、大まかな説明をこれまでの研究の例と一緒にあげていきたいと思う。同調とは「周りの人や友人などと考えが自分と違っていても、周りと同じ行動をしてしまうこと」のことである。 

 まず、アッシュという人物が興味深い研究をしている。まず、10センチの線を見せ、そしてその後長さの異なった3本の線から同じ長さのものを選ばせるという実験である。これは8人で行われ、そのうちの7人はサクラである。このサクラは全員が間違った答えを解答し、最後に被験者が解答をする形式をとった。結果約1/3の被験者が間違った解答をした。(同調行動を行った。)もしサクラが一人でも正答をすると、同調効果は少なくなったという。

 次に、同調行動にみられる国民性の相違について、ミルグラムが実験を行っている。この実験は、ノルウェー人とフランス人の学生に一人ずつ部屋に入ってもらいそこでヘッドホンをし、提示された二つの音の長さを判断させるというものである。これには、実在しない5人のサクラの録音テープが音楽の後に流され、最後に被験者が答えるという形式になっている。そして、5パターンの実験が行われた。この実験の中で特に興味深いものをあげていくと、まず普通に行われた実験では、ノルウェー人は62%の被験者が同調し、フランス人は50%であった。
 次に「この音楽は航空機の安全シグナルの設計に応用する」と、重要性を強調してから実験を行った。結果はノルウェー人56%、フランス人48%であった。
 そして、1番興味深い実験が3番目の実験で、被験者が多数意見に同調しないとき、他のサクラから「自分だけ目立とうとしやがって!!」などの非難の声を浴びせられる条件で行われた。すると、結果はノルウェー人は75%、フランス人は59%の被験者が同調した。そしてさらに興味深いことは、多くのノルウェー人は非難の声にこれといった反応を示さなかったのに対し、フランス人は、半数以上が言い返し、中には激怒して、罵声を浴びせる人もいたという。 

 この結果をみてミルグラムは、ノルウェー人とフランス人の同調率の差は、社会に対する印象の違いをあげて考察している。つまり、ノルウェー人の社会は高い凝集性を示す社会であり、集団の同一性感情が強い。したがって、ノルウェーの人々は、周囲の人々と欲求や利益をうまく調和させようとする傾向が強い、また、社会的責任感が強く、政府も市民生活に対する配慮や保護に力を入れているといわれる。それは社会福祉の充実とともに、高い課税にもあらわれている。さらに1814年以来単一の憲法で人々は生活しており、安定した社会といえる。 これに対して、フランス人は、社会的、政治的な一致をあまり求めようとしない、共和政体という枠組みで、政治的な安定性に欠け、極端なまでに多様な意見が存在する。小さな酒場でさえ議論が行われるなど、議論好きの伝統もある。 

ミルグラムは、こうした点が、ノルウェー人とフランス人の同調率に差をもたらしたのではないかとしている。

参考文献  

対人社会心理学重要研究集1  齊藤 勇 編  誠心書房      

大辞林  松村 明 編  三省堂

 


2.人を説得するための技法とは?

人を説得したいと思ったことはないだろうか?あこがれの人とデートがしたいけど断られてしまうとか、友達に頼み事があるけど頼めないとか、色々あると思う。
今回はそんなあなたに朗報である。上手くテクニックを使えば、人にイエスと言わすことはできるのである。今回のテクニックは悪用しないように願いたい。あと、効果がなかったという苦情はいっさい受け付けないので注意して貰いたい。

@フット・イン・ザ・ドア・テクニック(段階的要請法)

これは、言葉通りといっていいだろう。よくある刑事ドラマや、新聞の勧誘などでよく見られる光景であろう。そう、足をドアの中に入れてしまい、閉められないようにするのだ。(実際にはやりませんよ。勘違いしないでいただきたい。)
 方法としては、はじめに小さい要求(相手に不利益のないこと)を出して、一旦それを了承させます。こうなったらしめたもの、それからもう少し大きな要求をし、最終的に目的を実行するのです。
 解りやすく例出して説明してみましょう。A君はBさんと一緒にドライブに行きたいと思いました。しかし、なかなか誘うことができません。なので、まず夕食をおごることにしました。おいしいご飯を食べたあとに、A君は「きれいな夜景の見れるスポットがあるんだけど、一緒に行かない?」と言って誘いました。Bさんはおごって貰ってるし、いいかと思い、OKしました。
 人は最初の要求に承諾してしまうと、次の要求にも承諾してしまうものなのです。某テレビ番組のスティ○ガーに女性が誘われてしまうのも一つにはこれの効果があるといえるでしょう。

Aドア・イン・ザ・フェイス・テクニック(譲歩的要請法)

今度のテクもドアがキーワードです。人という動物は、罪悪感という物を持っています。これはそれを使った物なのです。
 最初の要求がとても大きい場合、大抵の人はそれを断ります。ですが、もしそのあとに小さな要求があれば応じてしまうでしょう。これは、承諾して欲しいことより大きな事をわざと言って、わざと拒絶させ、そのあとに本来の目的である事をいい、承諾させてしまうテクなのです。
 例えば、A君はBさんと一緒にドライブに行きたいと思いました。(同じパターンです。)まず、A君はBさんに「一緒に旅行に行こう!!」と誘いました。当然、Bさんは断ります。そこでAくんは「じゃあ、ドライブに行こう。」と誘うわけです。
 これは、相手が一度断ることによって、罪悪感を抱くために、小さな用件ぐらいはいいかなという具合に、承諾をしてしまうわけなのです。

Bローボール・テクニック(承諾先取要請法)

今回は、よく使われているテクだと思います。これは、はじめに、特典や好条件をつけて相手の承諾を引き出し、その後に先に提示した特典や好条件を取り去ってしまう説得法です。
 よくある話ですが、友人何人かで遊園地に行くことになったのに、当日来てみると、A君とBさんしか来なかった。仕方なく二人で遊ぶことになってしまった。そうです。これはBさんがA君とデートに行きたいという思いを、友人達が協力して叶えてあげたのです。
人は一度承諾してしまった場合、なかなか取り消したりできないものです。その心理を上手く使ったテクニックといえるでしょう。

以上の3つが主な物である。どうだろうか?参考になってくれればありがたい。あと、もう一度注意しておきたい。これは絶対悪用しないこと!あと、全部が全部通用するとは限らないということ。これを頭の中に置いて、これから活用していって欲しいと思う。


3.ジェンダーとは何か?


1. ジェンダーの意味

@ジェンダーという言葉がいつから使われだしたか
1960年代後半以降の現代フェミニズム運動の頃、女性解放運動の取り組みによる切実な問題意識からジェンダーという視角が生み出された。

Aジェンダーという言葉の時代による意味の違い
そして1980年代の半ばまで「ジェンダー(gender)」という概念はイヴァン・イリイチ(I.Illich)の使用した特殊な意味において使用されてきた。イリイチのいうジェンダーとは、前産業社会における男女固有の役割のあり方を指し、イリイチは役割が異なっていても平等な関係が存在するとした。そして、このような論点から女性解放の方向性として差異か平等かという問題が、大きくクローズアップされることになった。しかし、現在ではイリイチ的意味から離れ「男性と女性そして男性らしさと女性らしさが類型化され、そして歴史的、社会的、および文化的に形成された区別としての性」と定義されるようになった。

B「セックス」、「セクシュアリティ」などの性を現す他の語との意味の違い
そして、それは肉体的表現である性、つまりセックス(sex)と区別される概念である。ジェンダーは社会的に形成され、セックスは生物学的に与えられる。セクシュアリティもやはり「男女別、雌雄別」という生物学的意味をもち、ジェンダーのもつ意味とは異なる。またジェンダーはフェミニズムという概念とも異なる。フェミニズムとはあくまで女性が中心であり、前提とされるのに対して、ジェンダーはあくまで「両性の関係」を意味しているのであって、特定の性への偏りを意味するものではない。ただ現実の問題からすると、女性を中心としてフェミニズム的関心が、ジェンダー論では中心になると考えられる。したがって、企業組織での重要な関心事は性差別からくる女性の問題が当面のジェンダーの課題であると思われ、その側面からジェンダーの社会的平等と自由が考えられなければならないといえる。
とはいえ、この見解は学者によって異なっている部分が多く、特にセクシャリティの意味は『性的欲望・性的行動の総体』とする学者もいる。この種の言葉には恒久な定義はないといえる。

2.自己概念におけるジェンダー


 飯野(1984)によるとジェンダーには認知、行動・自己概念という3つ側面があるという。認知的側面には男性役割や女性役割はどうあるべきかという性役割規範や性役割志向性など、行動の側面には性役割の実現度、実行度、採用などが含まれている。そして自己概念の側面には、ジェンダーに照らして自分自身をどのように見ているかという自己の位置付けや自己評価などが含まれている。このジェンダーの自己概念という側面において個人のジェンダー・タイプは以下の4つに分類できる。
@ 男性性優位型:個人が男性的性格を自己概念に含める場合、それは男性性となる。この  男性性が高く、逆に女性性が低いタイプ。
A女性性優位型:個人が女性的性格を自己概念に含める女性性が高く、男性性が低いタイ
   プ。
B両性具有型:男性性、女性性ともに高いタイプ。
C未分化型:男性性も女性性も低いタイプ。
              

*ジェンダー・スキーマー

 個人がある対象を認知する際には、その対象のどのような点に注意し、それをどう符号化し、何を手がかりに記憶するかが重要である。ジェンダー・スキーマーは、このようなスキーマーの一種である。これは、個人があらゆる情報を「これは女性的」、「これは男性的」という具合に性別化するように認知過程を方向づける。また、自己や他者の性格に関わるものも、ジェンダー・スキーマーの影響を受ける。ジェンダー・スキーマーが自己概念に対して働くと男性性優位型の男性、あるいは女性性優位型の女性のジェンダー・タイプになる。これは以下の過程で行われる。まず、ジェンダー・スキーマーは、個々の性格特性を男性的か女性的かの二者択一的なものと認知し、区別する傾向を強める。次に個人は自己の性(sex)と個々の性格特性に備わっているジェンダー(男性的か、女性的か)とを照合する。その結果、自分の性別と一致すると認知された性格特性だけを自己概念として受容する。そのため男性は男性性を、女性は女性性を持つものと仮定される。反対に、自分の性別と個々の性格に備わっているジェンダーが一致しない場合には、その性格特性は自己概念として受容できなくなる。そのため男性の場合、自分が男性であることと女性的性格を自己概念として取り入れることに矛盾を感じる。その結果、男性の女性性は抑制される。つまり、ジェンダー・スキーマーが強いと、女性の自己概念は女性性が優位に、男性の自己概念は男性性が優位になるのである。

* ジェンダー・アイデンティティ

 ジェンダー・アイデンティティとは自己の性(sex)を容認した上で成り立つ自我アイデンティティである。ジェンダー・アイデンティティは男性にとっては「男としての自分らしい生き方」を意味し、女性にとっては「女としての自分らしい生き方」を意味する。

3.性同一性障害

性同一性障害の例
〜「ある性転換者の記録」虎井まさ衛・著〜

 著者の母親は著者の前に子供を四人流産していた。そして、著者を身ごもった時流産防止剤として大量の応対ホルモンを使用。その際医師から、「女の子だと陰核肥大や多毛といった男性化が起こるかもしれない」と言われている。
 著者は幼い頃から「大きくなったらオチンチンが生えてきて、男体になっていくのだ」とこれといった理由もなく信じていたが、小学五年生頃、第二次性徴が始まったのをきっかけに自分が「男体になっていかない」ことを悟る。その時期、偶然テレビで男性から女性に性転換したタレントを見て、自らも性転換を決意する。しかし、このことは大学卒業後に手術を受けるまで親に内緒にしていた。
 中学・高校時代に同性のような感覚の男友達がいたが、著者にとって周りから男子と女子の一組に見られることは我慢ならないことであった。なぜなら、著者の「自分は女体の持ち主だが、男以外の何者でもない」という性自認に従えば、それは同性愛を意味するからである。多くの人は同性愛の延長上に性転換を考えるが、そんなことはない。著者を「男」と認識する相手であれば、男女どちらでも構わないことになる。

性同一障害の問題点・課題

@「性同一障害」と言う呼び名
 →「自分らしい自分でありたいと望むことが障害だろうか?」という不満
 →一方で、「治療や手術を正当化するために、先々には保険を適用させるために病気・
  障害とする必要があるのなら何とでも」という意見
A性転換手術を受けた人の10〜15%に手術上の後悔・問題が残るという事実
 自殺例も0.8〜1.2%に昇る。
 →長期にわたる経過観察例が必要。きちんとした結果が出るまで手術は差し控えるべき
BAに多少関連して、性転換後の社会で生きにくいという現実
 →特にMTF(男→女)。まがりなりにも、家族や友人の手前「男らしい男」を演じてき
  てしまったため、女性らしい仕草・行儀を初めから学ばなくてはならない。しかし、
  FTMにはそれがほとんどない。(「明日から男でも平気そう」って女性、結構いませ
  ん?)そのかわり、怒以外の喜哀楽を手放しで表現しづらくなるなど世間の枠組みに
  囚われてしまうようです。


4.本質主義と構築主義
 こういったジェンダーをテーマにしている話題の中で、私が興味をもった点は、前項の性同一性障害という事柄である。これは本当に障害なのだろうか?
これに関する議論は「本質主義(エッセンシャリズム)」と「構築主義(コンストラクショニズム)」という二つの対立によって行われています。
 「本質主義(エッセンシャリズム)」は、ジェンダーやセクシャリティを構成しているのは生物学的な実体、例えば遺伝子やホルモン、脳の器質的特質だと主張します。これに対し、「構築主義(コンストラクショニズム)」はジェンダーやセクシャリティは社会的・文化的に構築されたものであると主張しています。
 「本質主義(エッセンシャリズム)」で有名な学者といえばドイツのドーナーや、アメリカのミルトン・ダイアモンドなどがいる。彼らは、人間の性別は生まれたとき決まっているので、性別の自己決定を認めない方向にスタンスを置いています。この考え方にのっとって、日本では1996年に埼玉医科大学で、性転換希望者に性転換手術(性再指定手術)が行われました。このことは賛否両論がありましたが、マスコミでは、好意的に扱われました。しかし、「構築主義(コンストラクショニズム)」側の人間からは、『ジェンダーは当人が決めたわけではなく、社会によってその項目リストが決められているわけで、すべてのリストに完全に適合する人など存在しないと理論的に言うことができる。』と反論されています。
 さて、「構築主義(コンストラクショニズム)」だが、この理論は前述したとおり、ジェンダーは社会によってその項目リストが決められているというスタンスを掲げているわけであり、性別の自己決定はできるとしている。
 「構築主義(コンストラクショニズム)」で有名な学者といえば、ジュディス・バトラーや、ジェフリー・ウィークス、等がいます。彼らは「本質主義(エッセンシャリズム)」はイデオロギーとして流布するにはとても容易な思想であるといっています。それは、主体が実際に自然で、したがって不変(不易)であると信じさせることによってイデオロギーは正確に作用するからだということです。しかし、「構築主義(コンストラクショニズム)」にも問題点があります。「構築主義(コンストラクショニズム)」は生物学的実体を否定するために、生物学的な実体としての『女』は存在せず、したがって女が女という理由だけでもはやお互いに同一化できなくなってしまったのです。このため、同性愛者などの解放・擁護のスタンスにいる人の中には、「本音では構築主義だが、運動を成功させるための建前として本質主義を使う。」といった、戦略的本質主義といったスタンスで運動をしている人達もいる。ジェンダーフリー的な立場の考え方から見ると、真のジェンダーフリーを導いてくれる万能な説はまだ出ていないといえるのではないかということになる。

5.考察
以上のように、ジェンダーとは何かということを性同一性障害や、本質主義と構築主義の対立、その他の考え方から見てきたわけであるが、「構築主義(コンストラクショニズム)」から言えば、性同一性障害などはないのだが、同性愛者の解放などという視点から考えると、「本質主義(エッセンシャリズム)」がまだ必要であるということだということがわかる。
時代や文化によってジェンダーの意味は異なってきていることを考えていくと、ジェンダーというものは社会や文化によって作り出されていくものだということになるといえるのではないだろうか。

参考文献
「組織とジェンダー」著者:高橋 正泰,山口 善昭,牛丸 元   同文社
「講座社会学14 ジェンダー」鎌田とし子 矢澤澄子 木本喜美子 編  東京大学出版会
「ジェンダーに関する自己概念の研究」土肥伊都子 多賀出版
「セクシャリティ入門」木谷麦子編 夏目書房
「セクシュアリティの心理学」 小倉千加子 有斐閣選書


5.アカウントとは何か


はじめに・・・構築主義(social construction)とは何か?


 構築主義の基本的な主張は「現実は社会的に構築(construction)されている」という点に要約する事ができる。われわれが生きている現実は周囲の様々な人々との相互的な交流を通して構築されているのということなのである。この交流には様々なシンボル(例えば言語)によって行われ、構築されていくのである。これは、様々な社会問題を人々が認知する事や、ラベリング理論、ジェンダー問題の中心的な論点や、ナラティブセラピーなど、様々な所へと波及している。社会心理学における構築主義の代表的な論者はK・J・ガーゲンである。
今回は、この構築主義の中で自己を語るというテーマに基づき、アカウント(釈明)を中心に述べていきたいと思う。

T.自己とはどのように成り立っているのか?

 自己というものはどのように成り立っているのであろうか?これは、近年の社会心理学を中心とする自己の構築主義においては、シンボルによって成り立っているとされている。この考え方は、早くはシンボリック相互行為論によって明確に示されてきた。ここで言うシンボルとは、広くは言語に代表される記号一般を示している。シンボリック相互行為論におけるシンボルも動作(ジェスチャー)、外見(アピアランス)、表情などの狭義のシンボルを指し示すのではなく、それを含めた言語的な記号一般を示している。
自己は基本的には自己を位置づけるシンボルによって成り立つことを指摘する。男や女、ヘテロ・セクシュアル(異性愛)とホモ・セクシュアル(同性愛)などの語彙は、男や女などという対象を反映したものではなく、むしろ男とは何か、女とは何かなどのシンボルが人々の経験を組織化し、人々に自己定義の語彙を付与する事によって自己を形作る根拠となる。したがって、本来的な意味での男や女のあり方というものはなく、そのあり方は歴史的、社会的に固有であり、相互行為での人々の支持に依存していると言える。最近、話題になった性同一性障害の競艇選手や、不当解雇に対し裁判となった昭文社の社員についての事も、相互行為により10年後もしくはもっと先になるかもしれないが、性同一性障害という考えも無くなっているのではないだろうか?
このように、自己はシンボル(言語など)によって構築されているのであって、固定的なものではなく、時代、文化、社会によって異なっているものなのである。それは、色々な面で証明されている。例えば、アフリカのある部族は男が家庭を守り、女が狩をするというように、欧米社会や、日本とは全く違うのである。このようなことにより、自己という存在がわかるのではないだろうか?

U.自己の事を語ることについて

 次に、自分のことを語るということについて、アカウント(釈明)を主な例としてあげたいと思う。アカウント(釈明)とは、過去の表現への注釈である。過去における表現が、その場にふさわしくない場合、それが行われた後で、その表現に対して、弁解や正当化のために注釈を加える事がアカウントの意味である。アカウントは主に2種類に区別する事ができる。1つは弁解(excuse)であり、2つ目は正当化(justification)である。この2つは以下のような意味の違いがある。弁解は自分が悪いということを認めた上で、自分に責任があることを回避しようとする事で、以下の4点のような意味がある。

@意図の否定(『こんな事をするつもりではなかった』)

(a) 事故

(b) 予想できない結果(知識、能力、技術の欠如や、努力や動機付けの欠如、環境条件による)

(c) 対象人物の誤認

A自由意志

(a) 身体的原因(疲れ等の一時的原因や障害などの半永久的原因)

(b) 心理的要因(自己の問題「情緒過剰等」が原因、他者の問題「強制など」が原因)

(c) 権威の欠如(「したいのはやまやまだけど、自分にはする権威がない」)

B担い手である事の否定

 (a)人違い(自分ではない)(b)失念(覚えていない)(c)協同行為(やったのは僕だけではない)

C宥和的状況へのアピール(すべてが私の責任ではない)

(a) スケープ・ゴーティング―行動は、他者の行動あるいは態度に対する反応だった。

(b) 聞くも悲しい物語―悲しい過去を際立たせる

次に正当化であるが、これも以下の8点のような意味がある。

@影響が誤って伝えられている事の主張

 (a)傷害の否定(全然危害を与えていない)(b)傷害の過小評価(僅かしか危害を与えていない)

A因果応報の法則へのアピール

(a) 報い(被害者は、自分の行為ゆえに危害を受けるに値する。)

(b) 価値減損(被害者は、自分の特性ゆえに危害を受けるに値する。)

B社会的比較(他の人も同じ事、もっとひどい事をやっている。でも、ばれていなかったり、誉められたりさえしている。)

C高い権威へのアピール

(a) 勢力のある人や、高地位の人が命令した (b)制度の規則が要求した

D自己充足

(a) 自己の維持(カタルシス、精神的・身体的健康)

(b) 自己の発達(個人的成長、精神の広がり)

(c) 良心(に従った行為)

E功利主義の原理へのアピール

(a)法と秩序   (b)自己防衛   (c)利益が危害を凌駕

F価値へのアピール

(a) 政治的(民主主義、社会主義、国家主義など)

(b) 道徳的(忠誠、自由、正義、平等など)

(c) 宗教的(慈愛、愛、神への信仰など)

G面子の繕いの必要性へのアピール

(a) 面子の維持(もしそうしなかったら、信頼を失っていただろう)

(b) 名声の構築(強い人間と見られなかったから、そうしたんだ)

このような違いが、弁解と正当化にある。これを待ち合わせに遅刻したK君の言動を例に挙げてみるとす
る。まず、電車の事故などの「環境的な要因」のせいにした場合、これは弁解の@意図の否定に当てはまり、病気などの「身体的な要因」のせいにした場合、これは弁解のA自由意志に当てはまる事になる。このように約束を破ったという過去の行為が、その相手を無視するという動機に基づくものではない事を表明する表現を、アカウントは意味している。
 
 この他にも、自己を語る事に関する事でディスクレイマー(事前否認)などがある。これは、これから述べようとする表現が、その場にふさわしくないと思うときに、あらかじめその動機を述べる事によって、その場の秩序を維持しようとする試みの事である。それは以下の5点にまとめる事ができる

@「私は専門家ではないが・・・・」というような前もって自分の立場や意見の相違を断っておく事

A「私は決して偏見を持っているわけではないが・・・・」という表現に見られるように、自分の意見への不信や不評に対して防御線をはること

B「そうする事は悪い事だとあなたが考えている事は承知だが・・・・」というように、相手の否定的な反応を承知しつつ自分の表現の罪を軽減しようとする事

C「このことは、あなたには奇妙に思えるかもしれないが・・・・」という表現に見られるように認知的な不一致をあらかじめ表明し誤解を回避する事

D「こう言うとあなたは怒るかもしれないが・・・・」という表現に示されるように、相手の判断や評価を一時的に控えるように求める事。

これら5点のケースがディスクレイマーである。
ディスクレイマーやアカウントは未来や過去の表現に対して注釈を加える事によって、相互行為の秩序が解体することを防ぐ試みである。このようなことを行う事によって、人は社会での相互行為を円滑に行おうと試みているのである。

V.語ることについての考察(まとめ)

 自己を語ることというのはとても大切な事なのである。少なくとも自己について語った言葉は、周りに対しては自分を表すシンボル、つまり自分を表すものとなるのである。このことは十分に考えて発言はしなくてはならない。売り言葉に買い言葉で、自分を窮地に追い込んでしまったり、逆に助けを得ることになったりと、自分を語ることによって周囲の世界はどんどん変わっていく事になるだろう。そして、自分を語るということはセラピーとしての力も十分持っている。ナラティブ・セラピーというものや、ロジャースのクライエント・センタード法などがいい例である。このように自己を語るということはいろいろな可能性を秘めている。アカウントという行為も、その人の失敗などに対する葛藤を未然に防ぐといったような意味が存在するし、ディスクレイマーもそうである。このように自己を語ることはとても大切なのである。人は自己を語らずに生きる事は出来ない。そういっても過言ではないと言えるのではないだろうか?



参考文献
片桐雅隆 『自己と語りの社会学〜構築主義的展開〜』 2000年 世界思想社
榎本博明 『<本当の自分>のつくり方』 2002年 講談社現代新書
小森・野口・野村 編著 『ナラティブ・セラピーの世界』 1999年 日本評論社
安藤清志 『「自己過程」の心理学』 2002年 2002年度対人行動論授業プリント
船津衛 『自我のコンストラクション理論の展開』 2002年 東洋大学社会学部紀要


 

2002年1月20日Last Update


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送